ジジジジ、と蝉がうるさく鳴いていた。梅雨のこの時期に珍しく晴天の日、少し暗い廊下から庭に視線を転じれば、これでもかと濃緑に輝いている。太陽は既に中天に座し、今自分が歩いている縁側には日陰というものが全くと言っていいほどない。汗を拭えば袖口に染みが出来て、また帰ったら小言を言われるかもなあと暑さに浮かされた頭でぼんやりと思った。袴が足に纏わりついて鬱陶しい。足袋も本来の役目から遠く離れて、ただ蒸し暑さを増すばかり。先生は脱いでもよいと仰っていたけれど、教わっている最中というのにそんな崩した格好など出来るはずもない。だからすぐさま裸足になった他の生徒を横目に足袋も羽織もきっちりとしたまま最後まで授業を受けた。先生は苦笑しただけで、何も言わなかった。だからオメーはヅラなんだよ、と終わった後で高杉にからかわれたが、奴のそれはいつものことであったから、ヅラじゃない桂だと訂正を入れて放っておいた。
しかし。しかし問題はその次だ。
先生が、高杉と銀時を手招きし、何かを耳打ちしたかと思うと二人を従えてどこかに行ってしまったのだ。
これは大問題だ。いつも二人を呼ぶ時は自分も一緒だったし、それが当たり前だと思っていた。そして今まで自分が仲間外れにされた経験が皆無であるせいか、先生に嫌われたかと疑ってしまう。もしそうなら死んでしまう。まあ、そんなことはないと解ってはいるけれど。とにかく、死活問題であったのだ。
「……そうだ、こうしてる場合じゃない」
死活問題を解決するために自分は歩いていたのだ。こんなところでぼんやりしている暇などない。そう自分に活を入れて再び足を進めようとした、ら。
くらりと視界が揺れた。
随分長く夏に照らされた庭を眺めていたせいか目の前がちかちかと明滅する。貧血というのだったか、と妙に冷静な頭は判断を下し、立っていられなくなって壁に凭れ掛かる。足に力が入らない。ずるずると座り込んで深呼吸するとむっと湿った空気が口から肺へ。気持ち悪い。喉が詰まる。息が出来なくなった。げほげほと盛大に咳き込むが、やはり入ってくるのは温い空気。要らない、要らない、要らない、入らない、そんなもの。先生はどこだ。あの糞生意気なチビと銀色はどこだ。ああ、先生、先生、先生。
いつの間にか視界は真っ黒に塗り潰されていて、そこから先は、……分からない。
気付けば、三つの顔が自分を覗き込んでいた。心配かけさせんじゃねーよヅラのくせによォと高杉が舌打ちし、銀時は何も言わずにそっぽを向いた。先生は、頭を撫でて額の布を取り替えてくれた。冷たくて気持ちいい。その温度にうっとりと目を閉じれば、軽い熱中症ですよ、まったく、我を張るからと声が降ってきた。熱中症。暑すぎて倒れたというのか。鍛練が足りないのだ。そう呟けば、ぱしりと布の載った額を叩かれた。瞼を上げれば、呆れたような、怒ったような先生の顔が。
「違います。熱中症は鍛練どうこうでどうにかなるものではない。己の体温管理が出来ない人が掛かるものですよ」
「……ぅ」
「だからあの時足袋と羽織を脱ぎなさいと言ったのに」
「でも……」
「でも、じゃありません。どうせお前のことだから、私に失礼だとでも思ったのでしょう?」
「……はい……」
「私はそういうことは気にしませんよ。そもそも、私が脱げと言ったのだから失礼になるはずがないでしょう」
「………」
諭され、俯くと、先生は困ったように溜息を吐いてまた頭を撫でてくれた。これを教訓に、今後、こういうことのないように。優しく言われたことに頷けば、先生は笑った。顔を見たわけではなかったが、気配で解る。
少ししおらしい空気が流れた。と思ったら、ぽんと先生が手を叩いた。
「さて、それじゃ、始めますか」
「は?」
「晋助、銀時」
「へーへー」
「わかりましたっ」
「え、は、……え?」
いきなりのことに着いて行けず口を開けて三人を見ていると、部屋が飾りつけられ、次にいつもより豪勢な料理が載った卓が運び込まれる。そして最後に、先生が笑顔で持ってきた白い紙箱を開けると、見慣れない白い塊が出てきた。甘ったるい匂いがする。どうやらその塊かららしいが、それにしても初めて見るものだ。
ぼけっとしていたら、さあさあ主役はここ、と座らされた。すぐ横には先生、反対には晋助、向かいには銀時。
「あの、先生、主役って」
「ん? 今日は小太郎の誕生日ではありませんか。だから、小太郎が主役ですよ」
「え……」
確かに、自分はこの日に生を受けたと聞いたことはあるが。しかしそれは、生を受けたその日に祝うのは、西洋の慣習のはずで、先生がそういうのがお好きなのは知ってたけど、でも、
そんな戸惑いを見透かしてか、先生の笑みが深くなった。
「確かに、この国にそういった慣わしはないけれど、私は元日に一斉に祝うんではなく、君が生まれたその日に祝いたいんです」
わかりましたか? そう言って撫でる掌の温かさが嬉しくて、気恥ずかしくて、耳が熱くなった。ええい、そこ、にやけるなっ。
「……わ、わかりました。ありがとう、ございます」
「ふふ、君が礼を言うことでもないんですがねえ。ま、いいでしょう。『けえき』なるものを食べましょうか。西洋ではね、これを食べて祝うのだそうですよ」
るんるんと包丁を手にした先生。綺麗に切り分けられて盛られていく『けえき』は、和皿にはとんでもなく不釣り合いだった。
それでも、先生が、高杉と銀時が、自分が生まれてきたことを祝ってくれる、そのことが他の何を貰うよりも嬉しい。
先生が穏やかに笑う。銀時がちょっとだけ笑う。高杉が皮肉げに笑う。
そして、俺も、笑った。
***
ふうっと体が持ち上がるように、目が醒めた。
「……随分と懐かしい夢を見たな」
起き上がれば、むわっと熱気と湿気を感じた。それに夢を重ねて少しだけ感慨に耽る。
もうどれほどの時があれから流れたか。その日がとても暑かったことは今でも鮮烈で。皆の笑顔がすぐにでも思い出せて。
しかしその回顧は不意にがらりと開いた襖に破られた。
「……エリザベス」
『おはようございます桂さん。今日は雨が降らない代わりに暑くなるそうですよ』
「む……そうか」
熱中症に気を付けなければな。呟いたが、エリザベスには聞こえなかったようだった。手早く着替えと朝食を済ませ、傘を取り草履を突っ掛ける。どこへ、と訊かれたので、かぶき町だと短く答えた。
かぶき町はいつも通りの喧騒だった。右を見ても左を見ても目付きの悪い奴ばかり。真選組の姿もちらりと見えた。あれだけ黒く重苦しいものを着て暑くはないのかと思ったが、所詮敵方。真選組など全員熱中症に掛かればいいと考え直した。
途中で土産を買い、ふらふらと目的地へと向かう。今日こそ奴を勧誘出来ないだろうか。つらつらと考えながら鉄階段を登り、慣れた調子でインターホンを押す。出てきた銀髪は俺を見るなり戸を閉めたが、莓大福であっさりと吊れた。安い奴でよかったと心から思う。
茶ァ飲んだら帰れよ、と念を押す銀時は暑さか、湿気か、普段の倍の大きさの頭をしていた。麦茶に口をつけて笑いを誤魔化したが、果たして気付かれたのかどうか。
「相変わらずの街だな、梅雨も暑さも寒さもここでは粋へと変えられてしまう」
「あん? そうかァ? ……お、この莓大福うめぇ」
「そうだろう。ということで銀時、俺と共にじ」
「やなこった」
すっぱりと却下された提案。そうか、莓大福でもだめか。これで何度目だろう。既に両手足使っても足りない回数だ。
肩を落としていると、ただいまヨーとここに居候中の少女の声がした。続いてしっかりとした、ただいま帰りましたという声。がさがさとビニールの擦れる音が聞こえたから、きっとスーパーにでも行っていたのだろう。
久し振りに見た子供達の姿は元気そうだった。まあ、寝込んでいるところが想像しにくい元気さなので元より心配はしていない。
「おーう、新八ィ、いちご牛乳買ってきたかいちご牛乳」
「どこにそんな金あるんですか! 買ってほしかったら仕事持ってこい天パァ!」
「そうアル! お陰で今日は酢昆布五本しか買ってもらえなかったヨ!」
「っだとゴラァ! ダメガネのくせによォ! あと神楽テメーなにちゃっかり買ってもらってんだ!」
「うるさいっすよ! 神楽ちゃんは手伝ってくれたご褒美です! あ、桂さんこんにちは」
「あ、どうも」
「今お茶出しますね……って、もう出てましたか」
たまには銀さんも接客するんすね。うっせぇ俺だってやる時ゃやるんだよ黙っとけや。銀ちゃんはいっつもそう言って結局やらないアル。だとコルァ。そんなやり取りを雇い主としながら台所に消えた二人の子供が微笑ましい。団欒の邪魔はよくないし、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。
「なに、帰んの?」
「そもそも貴様が茶を飲んだら帰れと言ったのだろうが」
「そうだけど、……あ、もうちょい待てって」
「?」
帰れと言ったり待てと言ったり忙しないなと思いつつ、もう一度ソファーに座れば、すぐに新八君が盆を持ってきた。後ろにはリーダーがいる。二人共何かを企んでいるような笑顔で、正面を見ると銀時も同じ顔をしていた。
「桂さん」
「何だ? 新八君」
「ヅラァ、今日が何日か言ってみるヨロシ」
「リーダー、ヅラじゃない桂だ。……あー、六月の、……!」
「よーやく気が付いたかヅラァ」
「……ヅラじゃない、桂だ」
そうだ、今日は。
先程から甘い匂いがすると思っていた。
それから考えると、盆に載っているのは、
「ケーキ食べてお祝いしましょう。あとお昼も一緒にどうですか?」
「ヅラ、私からは酢昆布三本ネ!」
「銀さんがケーキ作ったんですよ」
「ばっ、おま、それ言わねェ約束だったろ!」
「隠してどうすんですか。あーもう座って! 今日の主役は桂さんですよ!」
「へーへー」
わいわいと、騒がしい。その騒がしさが夢に重なる。
俺はなんて果報者なんだろうと、不覚にも目頭が熱くなった。誕生日に切り分けられたケーキと大切な眩しい笑顔があって、それ以上に何を望むのか。
「ヅラ、誕生日おめでとうアル!」
「……ありがとう」
ふと風が吹いた。
あの人に頭を撫でられた気がした。ああ、きっとあの人は微笑んでいるのだろう。