それを風の噂に聞いたのはいつだったか。誠しやかに囁かれるものは大抵がせである。だから、そんなバカなと最初は鼻で笑ったが、どうにも自分の第六感に引っ掛かって取れなかった。彼奴のことだからかとも思うが。
まあ何にせよ、それが正しいのであればいずれ来る時にきっちりと、そう、きっちりと問い質さねばなるまいと襷を掛けて久々に薙刀を手にした。そして、なンばする気じゃと周りの顔が怯えていたのを無視し、かつて通った道場へ向かった。
師範は突然の自分の来訪にも快くもてなしてくれた。後で何か礼をしなければ。頭の片隅で思いつつ、門下生も帰り冷たくなった床に立った。ひんやりとしたその温度に、自然、背筋が伸びる。
構えて、一呼吸。
ひゅッ──
空を切り裂く音が耳に心地好い。心はぴりりと引き締まる。もう一度、もう一度、もう一度。糸玉をほどくように型を思い出しながら、無心を心掛けて薙刀を振るった。
しかし無心を努めようとすればするほど、要らないことを考えてしまう。
(ああ、くそ)
脳裏にちらつく影に苛立ちが募る。集中したいのにしきれない。無心、無心、と呪文の如く言い聞かせても徒労に終わった。
ヒョン、と刃が鳴る。だんッと床を蹴って目の前の残像にも似たそれを目掛けて渾身の一打を見舞う。勿論当たるはずはない。力ばかりが空回って凛と張り詰めた気合いを切っていく。
ち、と盛大に舌を鳴らして集中が切れたことを言い訳に自然体に戻ると、全身が熱く、息も上がっていた。思った以上に長く真剣にやっていたらしい。
「まー、こぎゃんと気ィば立ちゆうのう」
そこに突然掛けられた声に、文字通り飛び上がった。
キッと、振り向き。
「師範……いつからそこに」
「ずっと居ったぞ。おんしが気付かんのが悪か」
飄々と言い返してへらりと笑う様は彼奴に似ていてまた苛立つ。が、まあ、今回は慢心していた自分が悪い。溜息を吐いて正対すると、師範が床を鳴らして寄ってきた。
「……、すんません」
「何が」
「いきなり押し掛けて」
「あー、それさっきも言っちょったが、気にせんでええよ」
吐き出したい気持ちを表す言葉を見失った挙げ句の謝罪だった。視線も行き場所を無くして、結局、ちょうど俯いた先にある甲の高く節立った師範の爪先に落ち着く。
自分の悶々とした心情を知ってか知らずか、暢気に彼は口を開いた。
「にしても、まあおんしァ相変わらずええ気合いばしちゅうね。げにおなごにしとくにゃ勿体なか」
「喧しか!」
ここに通っていた頃散々言われた台詞に勝手に口が言い返して、ようやくいつもの調子が戻る。いつもの、憎まれ口の調子が。
「師範こそ、それァ昔っから言っちょりますね。いくら言ったとこでわしが男児になれんの、解っちゅうくせに」
「あっはっは、言うだけならタダじゃき、何ぼでも言うぜよ!」
からりからり。晴の空のように笑う。浅黒く、年を重ねた師範の顔を、射し込んでくる強烈な夕陽が赤く照らし出してぬらりと光らせた。
掴めない、と思う。彼奴のように。朗らかに笑いながら実を見せない。裏のないように振る舞いながら誰より裏を持つ。いつだって他とは違う視点からものを見、他とは違う姿勢で先を見、常識を容易く覆して誰も成し得ないことをあっさりとやってのけてしまう。ぬるりぬらり、のらりくらり、そしてするりと、掴もうとすればするほど掌から指先から抜けていく。鰻のように滑っているわけではない、どちらかと言えば水そのもの、或いは風のような、清さを孕んで逃げていくその感触。気持ち悪いとは思わない。だが、少しはその真意を教えてほしいと幾度思ったろう。今だって、自分の調子を戻そうと敢えてあの言葉を選んだのかも知れないし本当にそう思ったのかも知れない。解らないのだ。判らないのだ。解しようも判じようもないのだ。当の本人のみにしか、その心は。
ああ、腹が立つ。
「師範」
「ん?」
「あの噂、知っちゅうがか」
「どの」
「……最近、巷で大騒ぎの」
「ああーあ。うん」
事も無げに言う姿はやはり被る。彼奴は剣技だけではなく性格まで全てこの人から盗み出していったに違いない。
「おんしァそれば気にしてあげにしとったんじゃろ」
「!」
「何じゃアそん顔は。解らんとでも思っとったが?」
陽気な笑い声があがった。無愛想な娘だと母を嘆かせている自分がすぐに悟られるほどに動揺が表れていたらしい。益々動揺する自分に何が愉快だったのか、師範の笑いはしばらく止まなかった。目尻には涙さえ溜まっている。終いにはヒイヒイと体を二つ折りにする始末。
……。ああ、腹が立つ。
黙っておれば、といい加減怒鳴ろうと口を開いた時、ようよう収まったらしい彼がすっくと立ち上がった。
「ま、あんま気にせんと。あれのことじゃ、きっと笑って帰ってくるろー」
「……、っ」
欲しかった言葉だった。誰からでもいいから、その一言が、欲しかった。それが唐突に師範から発せられて(それもまた彼奴にしっかりと受け継がれた部分であり苛立ちを増長させたのだが)、咄嗟に返事が出来なかった。出来るはずもなかった。
言葉を溢せず、ただはくはくと開閉を繰り返す口。それをぐっと結んでまた俯いて、師範の爪先を見詰める。
「……そう、ならよかが、」
欲しかったその言葉に応えて零れ落ちたのは、しかし情けない声だった。大きな掌が頭に載る。二度三度と撫でられて、視界が滲んだ。
それを聞いたのは、いつだったか。ずっと不安だった心を更に波立たせて、彼奴は、一体今どこに居る。
『聞いたか、』
街で囁かれていた言葉が、内側で谺した。
『もうすぐ、帰ってきゆうと──あの、坂本辰馬が』
***
道場で薙刀を振るって、五日。本当に坂本は帰ってきた。
「あっはっは! 久しゅうのー!」
そう笑う顔に殺意を覚えたのは無理からぬことだと思う。そう思いたい。
だから、これくらいは許されるだろう。というか許してくれなくては困る許してください許せコノヤロー。
「はっはっ、……アレ、陸奥? な、なしてそげん顔しちゅうが……薙刀まで持ちよって」
「さァのう。己の胸に手ェ当てて考えてみりゃアどうじゃ?」
「え、ち、ちくと待っ」
そして、断末魔が市中に響き渡った。
「で、おんしゃなして帰ってきよった」
茶を出してやりながら訊いてみれば、全身を腫れ上がらせた坂本は「それより水……」と言い掛けて止めた。横臥していた体を正し、大人しく茶を啜りながら顎を擦る。それが思案中の仕草だと知っているから話し出すまでこちらも黙って待った。ざりざりと鳴る髭が煩いなとぼんやりと思った。
「……戦、辞めてきた」
ぽつんと坂本の声が落ちた。いつもの明るさをどこへ遣ったか、ぼんやりとした顔で彼はそう言った。
ず、と一口茶を喉へ流す。
「知っちゅう」
「仲間ばただ死にに行かせんの、見てられんかったき」
「そーか」
「……戦は、いかん。いかんし、好かん」
「ふむ」
「陸奥」
「何じゃ」
かちっと視線が合う。真剣を宿した強い眼差しに気圧される。戦に出ると決めた、あの時と同じ光が在った。
「この戦ァ、わしらが負けるぜよ」
「……解っちゅうがよ」
嘘ではない。解っていた。戦の間に地球に降りた天人はあまりにも多く、また強大。宇宙を知らぬこの星の人間が勝てるとは正直初めから思っていなかった。
「時代には逆らえん」
「ああ」
「戦じゃアこの国は救えんと、戦に出て解った」
「そーか」
「じゃけ、戦に出んかったらそう思わんかったと思う」
「そーか」
「うん、でな、陸奥」
「何じゃ」
空になった湯呑みにまた茶を淹れてやり、調子を崩さず訊き返す。ずずずと音を立てる坂本を咎め、自分もまた一口。と、たった一息で飲み干して、坂本はそれまでの暗さはどこへやら、目を輝かせてダンと畳に湯呑みを叩き付けた。
「わしゃ、宙へ行こうと思うんじゃ!」
「………」
唐突。突然。いきなりすぎて頭が追い付かない。
今、こいつ何て言った。
固まる自分に構わず、坂本は興奮して喋り続ける。
──いーか陸奥、これからは高い視点が必要じゃ。天人や何やらやそんなのぜーんぶ見渡せる高い高いところへ行かねばならん。戦は駄目じゃ。人ば動かすんは武力でも思想でもなか。利益じゃ。利潤じゃ。天人たちァこン星の豊かな資源ば狙って来とうきに、ならばこっちからこン星ばうまーく使って商いで関係の調和ば図る。んで、天人と地球人が対等にやり取り出来るよーにすりゃア、こン国ば護れる。ついでっちゃあなんじゃが、星も護れる。今ァまだ理解は得られんと思う。先人も居らん、なンも無しンとっからやろうってんじゃきにの、当然ちや。じゃけ、今ンままじゃこン国は、こン星は、天人に食い潰されて終わるぜよ。戦ばやっちゅう場合じゃなか。戦やっちょったら大義ば見失う。じゃき、商売じゃ、商いじゃ。わしらがそん先駆けになるんじゃ。なァ、やらんか陸奥。陸奥? おーい、陸奥? なーしたが?
ぱたぱたと手を振られて、ようやく凍り付いた思考が溶け出す。
「……はい?」
随分間抜けた声が出た。が、それよりも。
「おんし、今何つった」
「商いやらんか、と」
「違うそん前」
「? 宙へ行く」
「……なして?」
「なしてって、今話したろー」
駄目だ拉致が明かん。頭痛が酷い。こめかみを押さえて唸る。商いをしたい。それは解った。宇宙に行く。勝手にしろ。それで。
「なしてわしに話すんじゃ」
「そりゃ、一緒に会社やってほしくてのー」
「はァ?」
それこそいきなりである。戦に出ると制止を振り切って飛び出し、唐突に帰ってきたかと思えば会社。しかも自分を巻き込んで。陸奥なら経理や何やも任せられるき、と暢気に笑う奴をもう一度殴ってやろうかと本気で考えた。
「陸奥」
「何じゃ」
憮然と答える。自分は今、最高にむすくれた顔をしているのだろう。坂本は困ったように眉を下げた。
「今すぐとは言わん。準備もあるき。じゃけ、考えてはくれんか」
じっと注がれる視線にいつものちゃらけた感じはない。真剣、なのだ。仲間を率いて争いの只中に飛び込むと決めた、あの時のように。悩んだのだろう。苦しんだのだろう。国のために──大義のために、自分に、何が、出来るのかと。
「……三日、くれ」
気持ちは痛いほど解る。だが、唐突すぎた。猶予が欲しかった。その真剣さに応えるための、猶予が。
「したら、返事するき」
「……そか、解った」
坂本は笑った。ほにゃりと崩れるような笑顔だった。
それから坂本が戦で出逢った「げに面白い奴ら」の話を聞いた。何でも、化け物みたいに強い男、背こそ低いが誰より尊大で頭の切れる男、真面目で聡明な男、他たくさん。日本は広い、自分はまだまだヒヨッコだと笑う彼は楽しそうで、さみしそうだった。
***
薄暗い自室で、坂本の提案を考える。灯も点さず、じっと、正座して。途中、母が夕食に呼びに来たが聞こえない振りをした。
長考から浮き上がり、ふっと吐いた溜息は少し疲れていて仄白く光った。
然程時間は必要なかったと思う。考えるまでもなく、答はすぐに出たから。きっとあの眼にかち合った時、既に心は決まっていたのだろう。ただ、踏ん切りがつかなかっただけだ。
「……三日も、要らんかったかの」
ポツリ、呟いた声はするっと闇に解けた。
***
約束の三日後、現れた坂本に決心を伝えれば彼は心底嬉しそうにそうか、と笑った。そして色々せねばならんと意気込む自分に、ばさっと懐から半紙を取り出して見せてきた。
そこには、お世辞にも綺麗とは言えない、しかし力強い字。
「こン三日、会社の名前、考えとった。んで、これにした」
「……ふむ」
受け取って、まじまじと見る。字は寺子屋の頃から本当に変わらないと関係ないことを頭の隅で考えて、ふとその下にもう一枚、半紙が隠れていることに気付いた。ちらと見れば、それは仮の社員名簿。そこには自分の名前がしっかり書かれてあり、また見透かされていたと憤慨すると同時に苦笑が漏れた。
今一度、会社の名を見る。力強く書かれたそれに、五年、十年先のことを思って今から胸を踊らせている自分がいた。ああそうだ。結局は、冒険したくて堪らないのだ。この男についていって、この星を飛び出して、世界を見たいのだ。宙の果てまで行きたいのだ。そしてこの男の大義の行く末を知りたいのだ。坂本を酔狂だ酔狂だと思っていたのに、その自分も大概酔狂であった──たった今気付いたことが、その証拠だろう。ふふ、とそんな自分を笑って、坂本に半紙を返した。
「うむ、名前は大切じゃきにのう。おんしにしちゃあ良い名ば付けたな、頭」
「おん、三日かけた、き、に……て、え、……かしら?」
「おんしが頭じゃろ。なに呆けた顔しちゅうがよ」
呆れて小突けば、坂本は照れ臭そうに笑った。それは次第にいつもの彼の笑声になり、最後にはうるさいほどに。喧し、とまた叩いて、先を促す。
坂本は、笑った。笑って、彼の大義を、世界へと声高に宣言した。
「『快援隊』、ここに結成じゃア!」
それは何の偶然か、十一月十五日。
坂本辰馬が、この世に生を受けた日のことであった。