曇天の月で待ち合わせ
 皆既月食、という言葉を聞いたのはそよ姫からだった。最近よく聞くカルキゲッサンとは何か、と神楽が訊ね、そよ姫はしばし考え込んでから「皆既月食のことかしら?」と返した。
「そう、たぶんそれネ。テレビつけても街歩いててもみんなそんな話ばっかりヨ。カルキゲッサンて食べ物? そよちゃん知ってる?」
「うーん、食べ物じゃなくてね、お月さまのことなの。えーと、どう説明すればいいかなあ……」
 つっかえつっかえのそよ姫の言葉をまとめると、カルキゲッサン、もとい皆既月食とは地球の影に月が隠れて見えなくなることらしい。神楽はいまいち要領を得ず、しかしせっかく言葉を尽くしてくれた友達の好意を無下にしたくない気持ちでなるほどと一つ頷いた。何はともあれ今宵の月は欠けるようだ。それも特別らしい。それだけを覚えて、手を振り合って神楽は江戸城を後にした。
 フンフンと鼻唄を歌いながら行く道は夕陽に照らされて赤い。夕飯を食べ終えた頃にはちょうど見頃になっているはずとそよ姫が言っていたことを口の中で繰り返しながら神楽は万事屋へ急ぐ。今日の夕飯当番は銀時なのだ。


「でね、夕飯食べたくらいに見れるよってそよちゃんが言ってた」
「あー今日だったっけ。昼間は晴れてたけどどうかなあ今は」
「んなことよりさっさとしねェとそのカルキゲッサンとやらも見れなくなるんじゃね? お前が自分の食事量わかってて言ってんならいいけどよ」
「皆既月食な」
「うっさいネ。これくらいすぐに終わるモン」
 既に食事を終えた銀時と新八を前にもぐりと白米を噛んで神楽は唸った。まったく風情のない男たちである。
 ちらりと時計を見ればそよ姫の言っていた時刻まで三十分ほどになっていた。あと二杯くらいはおかわりできそうだナ、と考える神楽を横に新八がテレビのチャンネルを回し始める。お通ちゃんの特番がどうこうと言っているが、どうせ自分の家でも録画しているくせに。
『──さて、本日は特別な皆既月食です! スーパームーンと相俟ってとても大きく見えます!』
 アナウンサーの興奮した声にくるりと目が向いたのは仕方ないだろう。江戸とは違う場所でアナウンサーの女性は人だかりを背に興奮気味に実況している。
 それよりも。
「えっもうカルキゲッサン始まってるアルか!」
「皆既月食な。ああいうのは結構時間かかるもんなんだよ」
「銀ちゃん知ってて何で言ってくれないの!? ひどいヨ!」
「は? お前が見たかったの全部隠れたときじゃなかったの?」
「違うヨ! お月さまが欠けるってそよちゃん言ってたからそれ見たかったの!」
「あーあーあーはいはいはいはいわかったわかった! 落ち着け、まだ間に合うからとりあえず飯あとにして外出るぞ。新八ィ」
「ハイハイ、夜は冷えるからちゃんと上着てね神楽ちゃん」
 新八から半纏を受け取り鼻を啜りながら玄関に向かう。泣いてはいない。ちょっとだけ目から汁が零れてるけど、断じて泣いてはいない。新八の困ったような笑顔が少し腹立たしくて脛を蹴って靴を履く。
「最初から見たかった……」
「バカヤローんなことしてたら夕飯食いっぱぐれるわ」
 はーまったく、とぼやきながら階段を登る銀時に続いて神楽は屋根に立った。周囲より特段高いわけでもない場所だが、先程よりは空が近い。
 しかし。
「……お月さまどこアルか」
「あーこりゃ随分と雲が厚いな」
「たぶん方角的にはあっちの方に……月がある……と思うよ」
「満月だもんなァ。今の時間ならもうちょいこっちじゃね」
「あー」
 どよんと曇り、塗り込められたような顔をしている空には星も月もまるで見当たらない。
 テレビの中の景色にはあんなに大きな月があったのに。
「銀ちゃん、お月さま見えるとこまで今から行ける? あの丘のとことかから見えるアルか」
「無茶言うな、あの丘のとこもおんなじ空だよ」
「テレビのとこは?」
「あそこはここから電車で何時間も行ったとこだから、今からは無理かなあ」
「ま、しょうがねーよ、テレビで楽しもうや。ホラ入んぞ、冷えちまわァ」
 がりがり頭を掻いてあっさりと銀時は階段を降りていく。そうですねえ、と物わかりよく続こうとする新八の背中に躊躇いはない。それがひどく恨めしかった。
 恨めしくて、悔しくて、悲しくて、なんとか晴れないものかと空を見上げて睨んでも、黒く濁った雲は退いてくれなかった。
「神楽ちゃん、冷えるよ。あったかいココア作ってあげるから降りてきなよ」
「……ウン」
 とぼとぼと降りる階段は世界一みじめだ。


 コトン、コトン、コトン。三つ置かれたマグカップにはあたたかく甘い匂いのするココアが満ちていた。神楽のマグカップにはマシュマロまで入っている。確かこれは銀時秘蔵のおやつではなかっただろうか。
 あってめ新八、俺のマシュマロ! うっさいっすよ、自分の血糖値と今の状況考えてください! 小さくやり合う二人の声も遠いまま、しょんぼりと神楽はマグカップを啜った。甘い。甘くてあたたかい。神楽が落ち込んでいるのをわかっているのか、定春がくぅんと身を寄せてくる。やわらかい毛並みに甘えながらもう一口。
『あっご覧ください! 今! 今すべてが隠れたようです!』
 点いたままのテレビは賑やかに皆既月食を楽しむ人々を映していた。ここではない別の場所で綺麗に夜空へ昇った月は輝くその姿を無くし、うっすら赤黒く浮かんでいる。
 いつかこの地球へ来た日、もしかするとあの月の横を通ったかもしれないとは思うのだ。思うのだけど、無我夢中でがむしゃらだったからもう定かではない。
 ただ、その月が欠けるという。さらに今宵の皆既月食とやらは特別のようだ。だからなおさら、己の目で見たかった。
 画面の中の月は、三人と一匹で楽しむにはあまりにも小さい。
 すん、と鳴らした鼻が痛んだ。
「神楽ちゃん」
「……なに」
「今回は残念だったけど、秋にも見れるよ、皆既月食」
「知ってる。でも、今日みたいなのはもう見れないんデショ」
「そうそう頻繁にはねーって話だよ、条件が揃えばまた見れるさ」
 え、と顔を上げれば銀時は心底面倒くさそうな表情でマグカップに口をつけている。新八もココアを飲みつつ頷いていた。
「ほんとアルか!」
「次は十二年後でしたっけね」
「知らね。あーあれだ、たまとかに聞けば知ってんじゃねーか」
「たまさんわかるかなあ……」
 明日聞いてみるか、と呟く新八を横目に神楽は繰り返した。
「十二年後……」
 それは途方もない時間に思えた。十二年経っても自分たちは一緒にいるのだろうか。十二年後、自分は二十六だ。もしかするとえいりあんハンターとして宇宙を飛び回っているのかも。定春は一緒に連れていけるといいな。新八は道場を復興させて、銀時は……ちょっとわからないけど。果たして一緒にいられるのだろうか。十二年の月日のあと、三人と一匹、バラバラだって何も不思議ではない。
「干支一回りか。なかなか気の長いこって」
「月食自体はそれなりにありますけど、満月の月食はやっぱり特別らしいっすよ」
「満月ってだけで特別だかんな」
「でも、そしたら、一緒に見たいヨ、皆既月食」
 ぽつんと零した声に銀時と新八が少し驚いたように目を開いた気配がした。
「十二年後、日付がわかったら、一番晴れるとこ探して、一番空に近いところで、私と定春と、銀ちゃんと、新八と、みんなで見たいアル」
 子供じみた願望だ。わかっている。
 それでも二人が何と返すか、それも神楽はよく知っていた。
「一番空に近いところねえ。やっぱターミナルか?」
「ですねー、あそこ十二年後さらに高くなってそうだし。ただ天辺まで行くのは難しくないですか?」
「まあその辺はなんやかんやだよ」
「なんやかんやってなんだよ無責任な」
「なんやかんやはなんやかんやに決まってんだろ。まあ言い出しっぺがちゃんと覚えてればいいんじゃね?」
 なあ神楽。常日頃から死んだ魚の目と称されるまなざしは存外にやわらかく優しい。
 差し出された未来の約束に、神楽は胸を張って答えた。
「任せるヨロシ! ちゃんと特等席用意しといてやるから、銀ちゃんたちも忘れちゃだめアルヨ!」
 はいはい、と笑う二人との約束は不確かでも、きっと十二年後、赤くて丸い月を三人と一匹で見上げるのだ。その月はきっと何よりも大きいに違いない。
RETURN | no : no
20210526 初出
20210602 一部加筆修正/再録

皆既月食、東京では残念ながら分厚い雲に阻まれて見ることが叶いませんでした。東京でこうならお江戸もひょっとして、と書いた話です。干支一周してもきっと一緒に見てくれるはず。万事屋は永遠なので……へへ……。